あるひとつの事件について、ことなる二つの見解がある場合があります。Aは「Bのしわざだ」といい、Bは「Aのしわざだ」という。この場合、第三者であるCはどういう態度をとるべきか?
「Aのいうことも、Bのいうことも、信じられない」「Aのほうが正しいと思うけど、それだとBから非難されそうだ」「わからないことが多くて結論を出せない」などということが多いとは思います。
しかし、事件の性質、Cの置かれた立場によっては、「中立」でいることがいつも正しい判断であるとは限りません。
そんな状況にいま私はおかれていますが、参考になる文献がありました。1987年11月29日に発生した大韓航空機爆破事件についての日本共産党の見解です。いまでこそこの事件は北朝鮮の犯行であることは明らかになっていますが、当時は「真相はいまだ不明」とする政党があり、それを支持する世論も少なからずありました。当時、学生だった私も「『北』の工作員がやった」と断言する見解を読み、「ここまではっきりいうのか」と驚きの感想をもった記憶があります。
すでに26年前の文章で、いまは入手困難になっていますので、このブログに再掲します。
大韓航空機爆破事件をどうみるか
1988・1・22 参院比例代表候補者会議での宮本顕治議長のあいさつから
最近の大韓航空機の爆破事件についてです。きのうも常任幹部会で討論しましたので、ひとことだけ、見方にふれたいと思います。
社会党は、真相不明だからコメントできない、という態度です。われわれは、「北」の工作員がやったことだとみています。われわれは、なにも被害国の政府当局ではありませんから、韓国政府の発表みたいなことはいわないけれども、事実上、「北」がやっているという確信です。また、それが正しいと思うんです。
なぜそういう立場をとるかというと、これはたんなる国内問題ではなく、国際航空路線で起こった国際問題です。大韓航空機の爆破で死者が百十五名もでているということは厳然とした事実であり、飛行機が墜落したということも事実です。爆破に関係があると思われる二人の人物が自殺をはかって一人が死に、一人が生き残って、生き残った一人がこんどああいう記者会見をやりみずから爆破したと自白を表明した。これら全体は、世界で起こった事実です。INF(中距離核戦力)全廃条約などの政治問題をどうみるかという見方の問題というようなものではなくて、一つの事実をどうみるかということです。
ところが、「赤旗」がはじめミスをやった。「われわれはいま、その真偽を確認する手段をもちません」と(一月)十六日付「主張」のなかに書いた。この「主張」はほんらい、指導部の点検にまわすべきものをうっかりして、「赤旗」がとりしきったという面もあるんですが。そうではなくて、今回の事件は客観的な事実です。真相というのは一つしかないわけです。その際、すでに、いまのべたようないくつかの明白な、否定しがたい事実がある、そこからみなければならない。
死を覚悟している工作員の女性が公開のインタビューで問いに答える態度というのは、これはけっして替え玉とかつくりごとではありません。あの会見をどうみるかというその見方について、あれは替え玉ではないかという見方をする人も若干います。しかし、あれをリアリティーがあるとみるかどうか。ごらんのようにリアリティーにみちています。その点からみても、われわれは、これは「北」側のスパイ工作員による爆破事件だ、テロ行為だということで、すぐに全面的にそういう論調にしたんです。
だから、わが党の発表を注意ぶかくみれば、「韓国政府の発表によれば」というようなことはいっていません。韓国の発表によれば、というようなことになれば、すべての立脚点が韓国の発表になります。われわれはそうではなく、直接、飛行機が墜落したという事実、人が死んだという事実、関係あると思われる二人の人物が自殺をはかったという事実、生き残った一人が記者会見で自白した――これらは事件の中核的事実なのであって、たんなる見方の問題ではありません。そこからわれわれとしては、従来の「北」の手口その他と関連して、「北」だとズバリみているんです。
「どうして韓国の発表だけを信用するのか」といった声がいろいろまだあります。しかし、われわれは韓国を美化したり、韓国の発表を前提にしているんではありません。一連の中心的事実からみて、そうした判断をしているわけです。
この点について、少しむずかしくいうと、科学的社会主義の認識論の問題があります。というのは、「まだどこに落ちたか定かでない」とか、「ボイス・レコーダーもでてない」とかいう点で、落ちたにしても、どの範囲に落ちたかもわからないとか、いろいろ質問があります。たしかに、人間の認識は一定の相対性がある、いっきょに全部、すべて認識するわけにいかない、しかし、真実は何かということ――真理の客観性、客観的事実に無限に接近する能力はあるんだというものです。観念から独立した客観的事実、世界があって、それがわれわれの認識にうつる、しかしその事実には無限に接近できるというのが科学的社会主義の認識論の立場です。だから、すべてがわかっていないからなんともいえないというのは、認識論的にいえば不可知論なんです。
いちいち、そういう哲学的問題を大衆のなかにだすわけではないけれども、われわれの認識の背後には、ちゃんとそういう確信があるんです。だから、あれもわかっていないではないか、これもわかっていないではないか、だからまだなんともいえないという論議というのは、結局、無限になにもかもでてこないと真相はわからないというものです。
同時に、われわれは韓国をなにも美化するものではないということです。それは、韓国自身が金大中を日本から暴力でら致した事件などをやってるわけですから。くりかえすようですが、われわれは韓国の捜査結果によればということを前提にしているわけではなく、事実の認識によっていっているわけです。そういう点では、今回の事件には非常に大衆は関心をもっていますから、確信をもって、逃げるんではなくて正面からどうみているか答える必要があると思います。
(「赤旗」一九八八年一月二十四日付)