日本共産党板橋南後援会ニュース8月号に寄せられた投稿を紹介させていただきます。
大谷口北町の「いまは昔」(大谷口北町 荒井輝)
私が現在の地・大谷口北町に住みついたのは昭和30年です。当時は大谷口町でした。大谷口が北町、上町、1丁目、2丁目に分けられたのは34年6月の地番整理からです。
谷底から水が
そのころ日大病院がある「いなり山」の南側は大きな谷間になっていました。そこはカヤなどが生い茂ったヤブの谷でした。谷底からは水が沸き出て川になっていたようで、むかしの人から魚を釣った話も聞きました。
谷の上のほうには水道タンクがそびえ、谷から流れる水はいまの大谷口小学校の正門のほうに向かって流れていました。谷もいつのころからか、民家がびっしり立ち並ぶようになりました。家が密集し防災上の問題があるため、現在、大規模な住宅改良事業がおこなわれ、もうすぐ新しい町並みに生まれ変わります。
北町一帯は牧場と畑
昭和33年に大谷口小学校ができるまでは、あたり一面、畑と牧場でした。子どもの手を引き「モウモウ見に行こうね」と乳牛を見につれていくのが日課のようになっていました。家の周りから、山桐牧場、積田牧場、川越街道をへだてて瀬戸川牧場、石神井川にそって井原牧場、積田牧場と麦畑、野菜畑ののどかな田園風景でした。
水害が多かった
東京オリンピックのころ(39年)にはすっかり住宅がたち並び、商店街もできました。
しかし大谷口北町は石神井川の水害に悩まされる町でもありました(写真は昭和53年、浸水したえびす通り)。水害のたびにいち早く飛び出し、水害見舞いにまわって歩いたのも共産党の人たちでした。
長年の要求運動で石神井川の護岸工事もできていまは水の心配はほとんどない町になりました。