きのうの板橋区議会。
共産党が提案した「学用品への補助金支給条例案」に
自民党が「教育支援策は“子ども手当て”のように全国一律でおこなうべきだ」
「すでに子ども手当てがある」と主張して反対した。
一方で自民党は
「子ども手当の廃止を求める陳情」に賛成している。
これを矛盾と思わないのか…?
きのうの板橋区議会本会議で政府あての意見書が全会一致で採択されました。
私も案文の作成に関わらせていただきました。
外交問題ですが、地方議会としても黙ってみているわけには行きません。
尖閣諸島沖における中国漁船等の不法活動の防止策を求める意見書
平成22年9月7日、沖縄県尖閣諸島近海の領海で中国漁船が海上保安庁の巡視船2隻に衝突する事件が発生した。我が国領海内において海上保安庁が外国漁船の違法操業を取り締まることは当然であり、これを妨害した同中国漁船の船長を公務執行妨害の容疑で現行犯逮捕したことは正当な主権の行使である。
那覇地方検察庁は逮捕した同船長を「今後の日中関係を考慮」したとの理由で「処分保留」のまま釈放したが、本来、検察は法と証拠に基づいて厳正な捜査を行うべきであり、検察がこのような政治的判断をするのは越権であると言わなければならない。
政府及び検察当局には、今回事件の被疑事実と釈放にいたる一連の経過について、国民に納得のいく説明を行うことが強く求められる。
今回のような事件を繰り返さないためには、日本政府が、尖閣諸島の領有権について、歴史的にも国際法的にも明確な根拠があることを中国政府や国際社会に明らかにする積極的な活動を行うことが必要である。
よって、板橋区議会は、我が国固有の領土である尖閣諸島に関して国会及び政府に対し、下記の項目を強く求めるものである。
記
1 我が国が実効支配する尖閣諸島に関して、領土領海領空、そして国民を守るため中国を始めとする諸外国へ毅然たる態度を示すとともに、領海侵犯や違法操業等を防止する積極的な措置を講ずること。
2 尖閣諸島周辺の領海並びに排他的経済水域において、我が国漁業及び資源開発等の経済活動の安全を確保するために、適切な措置を講ずること。
3 政府は、検察当局の判断も含め、臨時国会の場で国民に対し説明責任を果たすこと。
以上、地方自治法第99条の規定により、意見書を提出する。
東京都板橋区議会議長
衆議院議長
参議院議長
内閣総理大臣
法務大臣
外務大臣
国土交通大臣
防衛大臣
内閣官房長官
あて
10月22日の板橋区議会本会議で、表記の陳情の採決が行なわれました。
日本共産党と民主党は賛成しましたが、
自民党と公明党が反対し、
陳情は「不採択」となってしまいました。
以下は私がおこなった討論の内容です。
【討論の録画】
私は日本共産党板橋区議団を代表し、陳情第9号「建替え後も向原住宅に住み続けるための改善を求める陳情」を、当区議会で採択することを求めて討論をおこなうものです。
この陳情は、東京都住宅供給公社の向原住宅に住む方々が「向原住宅有志の会」をつくり、多くの賛同署名を添えて板橋区議会に提出したものです。
その願意は、向原住宅の建て替えが始まり、建て替え後の家賃が引き上げられることに、多くの住民が「もう住めなくなるかも知れない」と不安を感じていること、また実際に建て替えのために、多くの方々が住みなれた向原住宅を離れていった事態のもとで、いつまでも「ふるさと向原」に住み続けるために必要な家賃制度の改善、ないしは低廉な家賃で住める公営住宅の併設を求めるというものです。
つづきは、こちらから…
今回の定例区議会で、私は日本共産党板橋区議団とともに積極的に提案しました。
家族介護支援金支給条例案は、要介護者の居宅生活の向上を図るものです。
保育料条例の一部改正案は、保育料の減額対象者を拡大するものです。
区立学校学用品費補助条例案は小中学校の学用品費の保護者負担額の2分の1を助成し、保護者負担を軽減するものです。
また区長提案の補正予算案に対しては、共産党が要望した事業が盛り込まれており賛成しました。
同時に区民要求をさらに実現させるために、認証保育所の保育料補助を5千円から上限2万円に増額すること、産後1カ月健診事業の実施という二つの内容で修正提案をおこないました。
いずれも区民の皆様から寄せられた要求を具体的なカタチにして提案したものですが、
委員会審議では、
3条例案は自民党・公明党・民主党などに反対され、
予算修正案は自民・公明に否決されてしまったことは残念です。
最終的な賛否は22日の本会議で決まります。
これからも区民要望をカタチにして提案しつづけるつもりです。
板橋南後援会ニュースに、中国からの引揚げ体験を寄稿していただきました。
命がけだった満州からの引揚げ
弥生町在住 新井京子
昭和二十年八月十五日、私は「満州国」東安省林鉱県古城鎮在満国民学校に通う子どもでした。ラジオで「玉音放送」を聞いたときは、それから約一カ月も山中を逃げ歩くことになるとは思いませんでした。
目立つので、歩くのは夜だけ。開拓団の男の人は、招集されて誰もいなかったので、女性と子どもだけでとても心ぼそかったです。隠れるところない線路を渡る時は息を殺していました。
「三日もすればまた村に帰れる」と思っていたので、食物は、炒り米と塩を三日分だけしか持っていませんでした。お水が一番飲みたかった。山の中で朝露にぬれたとうもろこしを、きゅっと一皮むくと四、五滴の水が、小さな虫といっしょに出てきます。それを舌でなめました。
◆負傷した兵士が助けてくれた
日本の兵隊さんと出会うこともありましたが、軍と一緒にいると、かえってソ連軍から鉄砲で撃たれる危険があったので、村の三家族だけで逃げることにしました。
途中、大きな川に出ました。そこには死体がブヨブヨと浮いていました。川を渡れずにいると、左足に弾が三発あたって負傷していた日本の兵隊さんが来て、木を拾っていかだを作ってくれました。それで何とか向こう岸に渡ることが出来ました。
それからハルピン、新京、奉天と転々とし、葫蘆(ころ)島からやっと日本行きの船に乗ることができました。そこでも、列から離れた人が、鼻を銃剣で刺され殺されたのを見て、身震いしました。
一カ月近く船に乗って、やっと日本の佐世保に着いたときはほんとうにうれしかったです。
私はいまでも「戦争になったら、殺されることだけだ」と思っています。